公園概要
忘れられない、冷たい地下の独房から聞こえて来る叫び
日本は民族独立運動に参加した女性たちだけを投獄させるため、1916年に女舍を新築した。地下には独房を設置して比重のある愛国志士たちを収容して苛酷な訊問と拷問をする場所として使った。その後、1934年頃、獄舎を建て直しながら地下の監獄を埋め立てたが、学界と独立運動の団体たちの建議で、1992年に独立公園を造成する時発掘・復元した。復元された地下監獄の面積は190㎡であり、四方1mもならない独房が4個がある。
特に、ここは柳寬順烈士が日本のむごい拷問に耐えられず結局殉国した所であって、いわゆる'柳寬順洞窟'とも言われている。柳寬順烈士は1919年3月1日に起きた独立万歳運動によって梨花学堂に休校令が下ろされたら、故郷に帰って4月1日に天安竝川アウネ市場で独立万歳運動を主導した。その後、逮捕されて3年刑を宣告受けて公州監獄に投獄されたが、1919年8月1日に西大門監獄に移され、京城覆審法院で法廷冒涜罪が加重され7年刑を宣告受けた。柳寬順烈士は監獄で毎日朝・夕に独立万歳を叫んで、そのたび日本人が残酷な拷問を与えたものの祖国独立の意志を折らず、3.1運動1周年である1920年3月1日にイシンエなど同僚投獄者たちと一緒に大々的な獄中示威を起こした。その後、日本は柳寬順烈士を地下の独房に隔離投獄させてもっと残酷な拷問をした。その拷問と栄養失調のせいで、柳寬順烈士は1920年10月12日に獄中で壮烈に殉国した。
獄 舎
全てが壊れても、変わらぬ民像独立の精神
1987年にソウル拘置所が京畿道儀旺市へ移る時、獄舎は15個棟だったが、歴史性と保存価値を考慮して第9.10.11.12.13獄舎・中央舎・ナ病舎を保存し、その獄舎3個棟(第10.11.12獄舎)と死刑場は1988年2月20日に史跡第324号に指定された。日本の侵略に抗拒する民族独立運動が盛んだら日本の統監府は日本に抗拒する韓国の愛国志士たちが増えることを予想して、1907年日本で典獄(今の刑務所長)を勤めた日本人の設計で、度支部(財務部)建築所で監獄を新築した。獄舎は木造建物で'T字形'に建てられて、獄舎の中央から四方を監視することができるようにした。そこは昼にも光が遮断されてとても暗くてうっとうしくて、監房は中央の廊下を隔てて向かい合うようにした。第10.11.12獄舎の建物は1915年に建てられて、第13獄舎(工作舎)は愛国志士と投獄者たちを強制に動員して仕事をやらせた所だ。刑務所・軍部隊・官公署で使う官用物品を作り、第2次世界大戦を起こした日本は軍需用品の生産作業を全ての刑務作業の最優先的なことにして強制に動員した。
死刑場と屍口門
命は露のように消えて行ったが、その志は生きている
死刑場は日本が1923年に建てた木造建物で西大門刑務所を始め、全国から死刑宣告を受けて投獄された愛国志士たちが西大門刑務所に移されてから、死刑が執行された場所である。日本の侵略と蛮行に抗拒して西大門刑務所に投獄されて祖国の自主独立の恨みを抱いたまま、刑場の露に消えて行った愛国先烈たちの霊が蟠っているここは史跡第324号に指定された。死刑場の周りは高さ5mの紅い石垣が築き上げられていて、面積は50㎡であり、内部には開閉式板の上に死刑囚が座る椅子があって、その時に使った太い縄が下ろされている。死刑を執行する時、陪席者たちが使った長椅子がそのまま保存されている。死刑場の入口の三つまたに寂しく空に向けて育っているポプラは、死刑場に入る死刑囚たちが捕まえて痛哭したと伝われ、死刑場の前にいるポプラは死刑囚たちの恨みが蟠っていてよく育たないと言う逸話がある。屍口門は死刑場のすぐそばにあって、死刑を執行した屍を刑務所の外の共同墓地まで人知れずに捨てるために作った秘密通路であって、日本が彼らの蛮行を隠すために閉鎖したが、1992年西大門独立公園を造成する時、入口から40mを復元した。
追慕碑
もう一度焼き付けろう、その志にしたがって生きると言う
誓い
祖国の独立のために日本の侵略に抗拒して、西大門刑務所に投獄させられて殉国した愛国先烈たちの霊を慰めるための追慕碑である。西大門刑務所で日本の残酷な拷問によって獄中殉国した愛国先烈たちと死刑執行によって殉国した先烈たちの名前を刻み込んだ。日本の残酷な拷問と蛮行によって多くの愛国先烈たちが西大門刑務所で殉国したが、光復後日本が立ち去りながら彼らの蛮行を隠蔽するために、証拠になる受刑記録を大部分焼いてしまった。 現在は一部の資料によって考証された殉国先烈だけを記録した。これから発掘作業を続いて追加に記載する予定である。
垣の望楼
漢民族の独立の意志を防ぐには低すぎる垣
投獄者たちの脱獄を防ぎ、動態を監視するために設えた垣と望楼の一部を原形のまま保存した。1907年に垣を設えた時、木の柱にトタンを付けたが、現在の紅い石垣は1923年に設置した。垣の高さは 4.5m、長さは1,161mだったが、現在は前面に79m、裏面に208mだけが残っている。望楼は6個所の中で2個所だけ原形のまま保存されているが、8面に監視窓が設置されていて、高さは10mだ。正門の望楼は1923年に設え、裏側の望楼は1930年に設置したものだ。
殉国先烈追念塔
この追念塔は祖国たちの独立のために日本の侵略に歯向かって戦い、殉国した愛国先烈たちを追念するために建立されたものだ。
追念塔の中央には太極旗を陰陽彫刻した彫像が高さ22.3mで築造されていて、太極旗は全国14個都から現れた韓民族の高き独立意志と気象を象徴している。
念塔左右の長さ40mには独立闘争の歴史的な活動状を形象化した姿が浮彫されたいて、すぐ下に殉国先烈追念塔記が刻まれている。殉国先烈追念塔記には日本の侵略から祖国の独立を勝ち取るための韓国の先烈たちの自主独立意志と絶えなく続いた抗日闘争史を記録しており、殉国先烈たちの精神を繰り返して考えて、寃魂を追慕するための場所として造成された。
3.1独立宣言記念塔
3.1独立宣言記念塔は1963年8月15日に、再建国民運動本部の主観で、全国民の献金を募金して3.1独立万歳運動の現場であった塔ゴル公園(パゴダ公園)に建てた。
しかし1979年に塔ゴル公園の整備事業で撤去されて12年間放置されたが、各界から復元の声が高まると1992年に抗日独立運動の場であったここの西大門独立公園に移し立てた。塔の裏には3.1独立宣言門が刻まれたいて、独立万歳運動を主導した民族の代表33人たちの名前が刻まれている。
迎恩門柱礎
1407年(太宗7年)西大門の外に慕華樓を建てて明の私信を迎えた所。1430年(世宗12年)に慕華館と名を変えてその前にホンサル門を建てたが、1536年(中宗31年)に金安老の建議で、ホンサル門の変わりに青い瓦を着せて延照門とした。
1539年(中宗34年)に明の私信である薛廷寵が'迎恩門'に直して使った。その後360年間事大主義の象徴物として残っていたが、1895年2月(高宗32年)金弘集內閣の時、礎を2個残して撤去した。礎は四角の長い礎の花崗岩で四辺の角を磨いて八角形を成していて、1963年1月21日に史跡第33号として指定された。迎恩門柱礎は1934年に元の位置から南側へ移されて独立門の前に立てられてから、1979年に城山大路工事によって独立門と一緒に現在の位置にまた移られた。