2階 歴史の場
国愛に燃える先烈たちの義挙を通じて暗鬱だった韓国の歴史とそれを乗り越えるための抵抗を継承・発展して、あらゆる拷問と弾圧にも曲げなかった歴史の現場をもう一度振り返るために構成され。
民族抵抗室
決して跪かず、独立を成し遂げた精神西大門刑務所の設立された歴史的背景と韓国民族の抗日抵抗史を時代的事件別に展示しており、姜宇奎技士が南大門駅(今のソウル駅)で爆弾を投擲した義挙の場面を先端の映像技法のMagic Visionを通じて生々に再現した。淸日戦争と日露戦争で勝った日本は1905年に源泉無効である乙巳條約を強制に締結して、1907年には日本の侵略を国際社会に訴えようとしたHague特使派遣を口実で、高宗皇帝を強制退位させて軍隊を強制に解散させ。日本の侵略に歯向かって多くの愛国志士たちは主権を取り戻すために、各分野で抵抗した。特に、全国各地から起きた義兵たちがもっと激しく武力で抵抗すると現場で義兵たちと愛国志士たちを虐殺した。
刑務所歴史室
閉じ込めようとしても閉じ込められない独立の念願西大門刑務所の変遷課程と全国の刑務所現況を一目に見ることができるようにして、1934年の西大門刑務所の配置模型を展示している。韓国の監獄施設の代表的機関である典獄署がソウル鍾路にあったが、1894年の甲午更張の後、警務庁監獄署に名が変わった。1907年に監獄事務が法部に移管されてから京城監獄に名が変わり、西大門区錦溪洞(今の峴底洞)に新しく建て移した。朝鮮時代は德治と仁政を標榜した。従って監獄は設置するものの空いているようにすることが理想的だったので、その規模は小さかった。伝統的な監獄である典獄署は窃盗や强盗など、社会問題に関連された罪人たちを収監する施設であった。
907年に日本は韓日新協約を強制に締結してから、統監府を設置して日本人の次官を任命し、いわゆる次官統治を実施することで監獄署の高位職はもちろん下位職である監獄の管理も日本人で満たした。1909年7月12日に'韓国の私法及び監獄事務を日本政府に委託する件に関する覚書'である己酉覺書を強制に締結して私法権と監獄事務を日本の統監部が完全に强奪した。1909年の末期には9個の本監獄と9個の分監獄を全国に設置して全国監獄の収容人員は5.300余名に至った。1923年には監獄の名前を刑務所に変更して使い、韓国の日本の蛮行に歯向かった抗日運動が絶えない展開によって収容人員が急増したら、日本はまた全国に監獄を拡充して1936年には刑務所17個と支所11個を設置し、ここの収容人員が18.000余名に増えた。
獄中生活室
彼らの悪法である治安維持法を違反する恐れがあると言う日本の自意的な判断だけで愛国志士たちは老若男女何の区別なく、特殊犯罪者として分けられて残酷な拷問と非道な蛮行によってむごたらしく犠牲された。監獄の衛生と給食状態はまるで動物の檻のようだったので、監獄でなめる一番大きい苦痛は飢えであった。投獄人員が急速に増加したら陪食量が減ったため、投獄者の大部分が栄養失調に冒されて、多くの投獄者たちが飢えて死んでしまった。