刑務所足跡
ソウル特別市西大門区トンイルロ251 番地に位置した西大門刑務所は大韓帝国の末期に日本の強圧で、監獄が建てられて80余年間韓国の近・現代史の激動期の受難と民族の恨みが蟠っている歴史の現状であり、韓国民族の抗日独立運動に対する日本の代表的ば弾圧機関でもあった。日本は韓国を強制占領し、この地を足場として大陸を侵略しようとする野望を本格的に展開しながら、彼らの侵略に抗拒する多くの愛国志士たちを投獄させるための監獄の必要性を感じるようになった。かくして大韓帝国の時代に自主独立の象徴として建立した独立門の周りに1907年から大規模に監獄を建てた。この監獄は日本人の設計で、その時の貨幣約5万ウォンがかかった。
480坪規模の官房と80坪程度の付属施設で、収容人員は500余名の程度だった。その時の全国8個監獄の総収容人員が300名であったことに比べば、大規模の監獄であった。1908年10月21日に京城監獄と言う名で門を開けた後、日本に韓国の国権を奪われるとこれに抗拒する民族独立運動が全国から激しく起きて、日本は多くの愛国志士たちを逮捕・投獄させた。収容人員が増加すると、また彼らは麻浦孔德洞に監獄を建てて、これによって1912年9月3日に西大門監獄と名前が変わった。
1923年5月5日に西大門刑務所とその名がまた変えられて1945年8月15日に光復の日を迎えるまで多くの愛国志士たちが投獄され、拷問を受けたり死刑されたり獄死された悪名の高い所である。 1945年11月21日にソウル刑務所とその名が変えられ、1961年12月23日にソウル矯導所と、1967年7月7日にソウル拘置所と変えられた後、1987年11月15日にソウル拘置所が京畿道儀旺市へ移るまで名の変化だけ、多くの民族受難の歴史を留めておいたまま、1992年8月15日に「西大門独立公園」として開園した。
1987年京畿道儀旺市へ移る時、獄舎は全部15個棟だったが、現在は歴史性と保存価値を考慮して7個棟だけを原形のまま保存している。その中で、獄舎3個棟(第10.11.12獄舎)と死刑場は1988年2月20日に史跡第324号として指定された。
西大門区では1995年から西大門独立公園史跡に対する聖域化事業を始めた。 祖国独立のために日本の侵略に歯向かって戦いながら投獄されひどい拷問と弾圧を受けて殉国した愛国先烈たちの霊を慰めて、子孫たちに韓国の先烈たちの自主独立精神を悟らせてくれる歴史の生きている教育場とするために、新装して「西大門刑務所歴史観」として開館した。