希望日記

A A
  • 共に歩むということ
    [朴元淳の市政日記11]

    SMG 919
  •     「清渓川(チョンゲチョン)市民委員会」が素晴らしいきっかけを作ってくれました。市長として、市民と共に歩むということについて、もう一度考えさせられたひと時でした。2月28日、私は多くの人と清渓川を共に歩きました。専門家、記者、市庁職員、ソウル市民、そして野次馬のように笑いながら後を付いてくる子供達。そんな人がたくさん集まる中で一人歩かなければいけないシーンもありました。たとえば、清渓川の飛び石を渡る時、写真を撮らなければならないといって、一人で渡らされたりもしました。今考えても、私はとてもぎこちなく、どこか照れくさかったような気がします。まるで俳優のように、監督の「スタート!」という号令に合わせ、周りの観衆は皆後ろに下がり、一人で飛び石を渡るのです。パシャパシャとシャッターを切る音が忙しく聞こえてきました。私はまるで「撮られる物」になった気分でした。あるいは、私だけが清渓川再復元の「主人公」にでもなったかのような、疎外された気分というべきでしょうか。まあ、確かに公人が果たすべき業務の一つは、このようなものだということは分かっているつもりですが。

         しかし、そのような気分に浸っている場合ではありません。たくさんの資料が手渡され、報告を聞きながら、清渓川の川沿いを歩き続けました。ところがその時、数人の市民が土手の上から大声で叫びました。多くの声は私を応援していましたが、ある一人の声がとくに切実な響きを帯びていました。「私の住むところは○○で、○○です!」、「この地域は○○だから○○です!」。

        周りが騒がしかったためよく聞こえず、しばらく立ち竦んで、耳を傾けていました。ソウル市の職員達は慌てて、後できちんと整理して報告すると言いましたが私はそれでは困る、と判断しました。その人に降りてくるようにお願いし、直接お話を聞きました。その時、はっと思いました。「我々は、共に歩んでいるのだ」と。フランスの文人ダヴィッド・ル・ブルトン(David Le Breton)の『散歩礼賛』には、「雨が降り出す都市、その軒下では、誰でもお互いが同類意識を覚える」という言葉がありますが、その時私はこの本の言葉をふと思い出したのです。

         そうでしょう?我々は皆、ソウルという町、その軒下で、同じ時代を歩む、同じ歴史に刻まれる同類のはずです。太陽のもとでは共に日差しを浴び、雨の時にはともに雨宿りする仲間。短い時間ですが、市民の皆様と目を合わせ、その声に耳を澄ましていると、私の一挙手一投足をカメラに収めていた記者たちも違う目で見れるようになりました。彼らは記録してくれていたのです。ありがたいことだ。写真を撮るのに夢中になって、躓いて川に落ちるのではないか、私は心配になってきました。そうです、我々は共に歩んでいるのです。