1882年に壬午事変が勃発すると、清はこれを鎮圧すべく軍を送った。このとき軍に軍需品を調達するために商人たちが朝鮮に渡り、その一部がそのままミョンドン一帯に定住して絹織物の商売を始めた。近代化期のミョンドンは、まるで中国人に占拠されたかのようだった。
ミョンドンで近代的商業が本格的に発達し始めたのはその頃だ
韓国で最も地価の高いミョンドン。韓国の商業の中心地として成長してきたミョンドンは、多くの観光客が訪れるソウルの代表的な観光スポットでもある。現在、ソウルを訪れる観光客の多くがヨウカー(中国人観光客)だ。
多くの中国人観光客がミョンドンを訪れるようになる以前から、すでにミョンドンに根を下ろしていた中国人たちが1882年に朝鮮に渡ってきた清商(清の商人)だ。その影響もあって、ミョンドンは中国の郷愁が漂っている。
ユネスコ韓国委員会が入居するビルは1967年にオープンした。周辺は北京の繁華街「王府井」を彷彿とさせる。ずらっと建ち並んだ衣料品店やコスメショップの前には中国語の案内文が掲げられ、中国で人気の韓流スターの立看板が過ぎ行く人の目を引く。
従業員たちはみな中国語も日本語も流暢だ。
ミョンドンには古風な装いの巨大な聖堂がある。韓国カトリックを象徴する聖堂でミョンドンを代表する名所、ミョンドン聖堂だ。高くそびえる尖塔や赤レンガの外壁、アーチ型の窓とスタンドグラスなど、フランスのノートルダム大聖堂と同じゴシック様式で建てられた。
ミョンドン聖堂は、当時「苦力(クーリー)」と呼ばれていた中国人労働者らが工事に参加して建設された。韓国人は西洋式建築物を建てた経験がなかったため、中国人の手を借りる必要があった。中国人はミョンドン聖堂の他にも、韓国銀行やハンソン(漢城)華僑小学校の建設にも参加した。
韓国の民主化過程で頻繁にデモが行われた歴史的な場所でもある。
ミョンドンは街全体が巨大ショッピングモールのようだ。フォーマルウェアやスポーツウェアといった各種衣料品専門店やシューズショップ、雑貨店、数多くのコスメショップなど、いつでもどこでもショッピングを楽しめる。
ミョンドンがショッピングの街になったのはいつからか。
1880年代から90年代初め、ミョンドンでは中国人商人の絹織物屋が大人気だった。洋服制作技術も理髪技術も中国人商人によって伝えられた。
当時のミョンドンは先を行く欧米のファッションと美容文化に触れられる場所だった。その名残りが今も残り、現在もファッションとショッピングのスポットとなっている。
1909年に設立されたハンソン華僑小学校は、華僑史において非常に意味のある施設である。華僑のために建てられた学校だけに、現在も韓国の教育体制ではなく台湾の教育編成に従う。生徒はすべて華僑の子どもたちだ。
中華料理の店が密集するミョンドンでも指折りのグルメ通り。中国はバラエティに富んだ料理で有名だ。豊富な食材と香辛料でつくられる料理は、アジアだけでなく西洋の人々までも魅了している。
ジャージャー麺や月餅、山東風餃子など、華僑自ら料理した本場の中華料理の味を楽しめる。
ハンソン華僑協会は、旧チュンジョン図書館(1975年開館)の建物に入居している。「チュンジョン(中正)」は中国国民党のリーダーだった蒋介石の号にちなんだものだ。2013年にハンソン華僑協会が建物を改装した。中国の歴史と文化、風習が今も息づいている。
ミョンドンの一角にあるいかにも中国風の雰囲気が漂う建物が目を引く。2014年に新築された韓国駐在中国大使館だ。
1885年、中国一の権力者だった袁世凱がミョンドンに拠点を置き、約10年そこに住んだという。中国大使館は韓国駐在外国公館の中で規模が最も大きい。また、中国の外国駐在公館の中では米国の大使館に次いで2番目に大きいという。韓国とは政治的・経済的・文化的に切っても切り離せない関係であることがうかがえる。
最先端ファッションとショッピングの街「ミョンドン」には、華僑の精神と文化が息づいている。