100年以上の間青春のメッカの座を維持してきたシンチョンは、いつも若い活気が溢れる。
シンチョンを中心に近隣の六つの大学が発散する若さの熱気は、夜になっても冷めない。
外国人の口からも「シンチョン」と「ホンデ」は自然と出てくる。生き生きと湧き出る若さの熱気、この街には何があるだろうか。
1914年、ヨンセ(延世)大学の前身であるヨンヒ(延禧)専門学校が設立され、付近にはイファ(梨花)専門学校が開校した。
近くにはソガン(西江)大学、ホンイク(弘益)大学があり、少し距離の離れたミョンジ(明知)大学や韓国航空大学を含めシンチョン圏が形成され、6校の大学生たちが集まる。
そのため、シンチョンとヨンセロの雰囲気は多分に「学生的」である。ヨンセ大学の前には懐事情の良くない学生たちのため、安い肉屋が軒を並べており、下宿街やコーヒーショップ、文房具屋なども多い。地方から上京した学生たちが安く食べて暮らすのにぴったりの環境が備わっている。
この地域に大きな商圏が形成されたのは、近隣に大学が多いためである。長髪にデニムのジャケットを着て踊っていたダンスホール「スペース」も、ロックンロールを論じながらビールを飲んだ「ウッドストック」も、全てシンチョンの古いランドマークである。
現在は潛望鏡の造形物が待ち合わせ場所として人気だが、シンチョンに詳しい人たちは「百貨店の時計塔で会おう」という言葉に慣れている
そして久しぶりにシンチョンを訪れる人々は、広くなったヨンセロを見て驚き、感心する。所々に座って休めるようベンチが設置され、ホンイク文庫の前には有名な文人らのハンドプリントがある。
バス停もきれいに整備され、横断歩道の信号も最小化されている。最近、ヨンセロは歩行者天国として生まれ変わった。4車線の道路が2車線に減り、週末は歩行者だけが通行できる。
週末になると、シンチョンロータリーや中央十字路で公演が行われ、手作りのアクセサリーを売る商人で賑わう。歩行者のため、歩道の段差をなくし、所々にかわいい造形物が置かれている。シンチョンの思い出を歌う異色の空間「シンチョン(新村)プレイバス」も新しい名物となっている。
警笛を吹きながら走る汽車も、荷物を手に行き来する人もいまは見られない街で、新しい実験が花を咲かせている。ホンデ・テンテン通りと呼ばれるワウサンロ32ギル。芸術家と商人らが、この通りに活気を与えている。
テンテン通りというユニークな名前は京義線(キョンイソン)の影響だ。以前はここを京義線の汽車が走っていた。汽車が通るとき鳴る踏切の音「テンテン(カンカン)」から由来する。
しかし、2005年に京義線の地下化が始まり、街の雰囲気が変わり始めた。主な交通手段がひとつ減ったため、人の往来も減り、商圏も活気を失った。敷かれていたレールまで撤去すると、鉄道は言葉通り荒れた空き地となった。
だが、忘れられつつあったテンテン通りが再び活気を取り戻している。それはここで店を営むある住民のアイデアから始まった。街のあちこちにいる音楽家、美術家の力を借りて、ここを復活させようという考えだった。その現場が「テンテン通りマーケット」である。この小さい市場は、2014年6月に数名の売り手が集まり、始まった。小さい規模だったが、次第に人々が集まり続けた。口コミとテレビ番組で知られ、秋になるとその規模は更に拡大した。
テンテン通りの入口の丘にはインディーズバンドの故郷ともいえる「サヌルリム小劇場」がある。また、ホンデ方面には多くの美術教室がある。位置的に以前から多くの芸術家が住み、滞在し、行き来した。その芸術家たちが、この街の再生に乗り出している。
街の雑誌「テンテンマガジン」が作られ、芸術家と住民をつなげる「友達追加プロジェクト」や観光客が共に参加する住民祭りも計画中だ。
ホンデ周辺の「テンテン通り」はまだ大手企業に飲み込まれていない所の一つだが、2017年に京義線公園が計画通り造られれば、新たな変化の風が吹くかもしれない。