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[2012] 市長挨拶

  • 漢陽都城は市民が完成します、歴史を完成します

  • [2012] 市長挨拶 SMG 1,277
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    漢陽都城の保存・管理・活用総合対策記者発表会

    月日:2012年5月7日 会場:ソウル市庁西小門庁舎ブリーフィングルーム

    愛する市民の皆さん、今、ハニャン(漢陽)都城はソウルを包み込み、市民の歴史となります。600年の歴史がよみがえるのです。

    市民の皆さん、漢陽都城は世界最長の600年という長い期間引き継がれてきた唯一の都城遺産です。漢陽都城は初めから人本主義を根幹とする歴史です。「国の都城である国都と民を保護するために築造した」と実録三峰集に記録があります。王朝と民を保護する役目を果たしていたのです。そのように漢陽都城は、国民の生活の基盤、人生の舞台となってきました。その時間が600年です。また、漢陽都城は自然と一体化した歴史景観として世界でも代表的な事例です。

    この全ての価値を基礎にして、2012年4月20日、ユネスコ世界遺産の暫定リストの登録対象に確定しました。今日の私たちと漢陽都城の600年の歴史が共に成し遂げたことです。

    それでは、漢陽都城を大事にする方法は何でしょうか? 今年1月31日、専門家と市民、ソウル市職員と記者の皆さんと一緒に漢陽都城を巡りました。その時、みんな多くのことを学びました。そのため、漢陽都城の保存・管理・活用総合対策をつくることが当然の流れになりました。

    次のような内容で、共に考えていきたいと思います。

    まず、漢陽都城の六百年史です。漢陽都城の誕生は民の業績でした。1396年、太祖の時に初めて築造しました。五道の民19万人が98日間全力をつくしました。そのようにして漢陽都城は新しい都の象徴となりました。1422年、世宗の時には改築をしました。そして、都城は国家体制を完成する象徴となりました。八道の民32万人が38日間作業しました。1710年、粛宗の時にも改築が行われました。国力回復の象徴となりました。壬辰倭乱と丙子胡乱、二大戦乱の被害を受けた後に国を再興する作業の一環でした。

    漢陽都城はただつくられた訳ではありません。仁・義・礼・智、儒教の哲学を根拠に、外四山と内四山の人文学的意味を十分に把握して建築し、四大門と四小門を設けました。こうして漢陽都城によって全国八道と都城がつながり、交流が生じました。

    漢陽都城は私たちの人生とかけ離れた建築物ではありませんでした。私たちの生活、私たちの遊びともなって今日まで続いています。朝鮮時代の漢京識略には、「城内の人々が二人一組で城周辺を回り、景色を見物することを巡城と言う」と書かれています。日本植民地時代の記録にもあります。「巡城は、雨が降ろうが風が吹こうが、一日で終えてこそ利き目がある」「チョンノ(鍾路)の商人は自分の店の幸運を祈るためにこっそり巡城をすることがあった」。おもしろい記録でしょう?現在でも都城をひと回りする巡城を楽しむ市民はたくさんいます。

    それだけではありません。漢陽都城はそのまま国民の人生と朝鮮の文化芸術となりました。朝鮮水墨画の巨匠の真景山水でも主要な素材として描かれました。歴史の大きな舞台となったのです。

    しかし、漢陽都城は侵奪されました。日本の皇太子の交通の便宜を図るという名目で、崇礼門城壁が撤去され、鉄道をつくるという名目で興仁之門の城壁が撤去されました。1914年、総督府高官の官舎を建設するために西小門が撤去され、敦義門は交通の便宜を図るという名目で、米17袋分の木材として売却されました。東大門運動場を建設する時に二間水門は毀損埋没し、保守費がないという理由で恵化門の門楼が取り壊されました。

    解放独立後も漢陽都城は忘れられた存在でした。都城を毀損して自由センターが建設され、都城は建物の築台となりました。開発の波の中で敬遠され、残っていた城壁は私有地の築台や塀になりました。

    しかし、歴史は必ず前進します。1975年のサムチョン(三青)地区の復元を始めとして、76年にソンブク(城北)地区が復元され、2009年には東大門歴史文化公園地域まで、合計1万2344メートルに及ぶ都城が復元されました。現在の復元中の区間は1156メートルです。道路・私有地になっている区間と復元が不完全な区間に対する再解釈や再復元に関することなど、私たちに与えられた課題は依然多く残っています。

    もちろん、保存努力にもかかわらず、一部不完全なままの復元は確かに存在します。セメントで目地施工をした区間もあり、城郭に石を置いて上段をセメントで塗り固めてしまった区間もあります。考証が行われていない城壁の高さもあり、世宗区間に粛宗の刻字が置かれている、つまり世宗時代に改築された区間に粛宗時代の刻字が書かれた石が置かれているのです。最も悪い復元は、中途半端な復元です。その理由は、私たちより有能な子孫に対して本当に完全な復元の機会を奪ってしまうからです。そうした状況にもかかわらず、全体的には城郭の円形がよく保存されています。

    漢陽都城は地形と一体化した独創的な築造技術を有しています。自然の一部として自分たちを認識した先人たちの哲学がよく反映されている都城です。地形と一体化した独創的な築造技術が使われました。

    そのおかげで私たちは、伝統と現在がうまく共存している今日の漢陽都城を遺産として受け継ぐことができました。

    だから私たちにも義務があります。漢陽都城を最善を尽くして回復し、子孫に残すという責任です。

    今から、私たちの誓いを申し上げたいと思います。でもその前に、尊敬する記者の皆さん、親愛なる市民の皆さん、お願いしたいことがあります。必ず一度、気候がもっと暑くなる前に、都城を巡城してみてください。一日にぜんぶ回ると欲を出さなくてもかまいません。そこに上がってみれば、ソウルが違った姿で目に映るでしょう。ソウルが感動となり、愛となって近づいてきます。そこに上がれば、私たちのソウルが、ソウル市民の暮らしのどこが誇らしく、どこが苦しいのか、全部見えます。ソウルという空間が、ソウルの都市計画の中で何が欠けていて、どこが美しいのか、街並みをなぜ保存して、私たちはなぜ共生を目指すべきなのか、わざわざ誰かに説明を聞かなくてもひと目でわかります。

    今ソウルがどのあたりに来ているのか、これからはどのように進むべきか、私たちの中で共同の答えを見つけることができます。そのように漢陽都城は、私たちに大きな気づきをくれる一冊の歴史の本のようであり、一編の詩のようで、よくつくられた一冊の報告書のようでもあります。

    私はそれを全てのソウル市民と共に読み、また、その先を書いて行きたいのです。さあ、私たちの誓いです。

    まず、2015年までには途切れた都城を全部つなぎます。その過程で真正性と完全性を調和させて復元します。そのために、復元が難しいところは、少なくとも城跡があることを表示します。つなげるところは上部を形づくり、道路などでつなぐのが難しい区間は城跡を表示します。都城の涙として跡を残すのもよいでしょう。そうすれば、子孫は少なくとも私たちの心を遺産として受け継ぐでしょう。都城にふさわしい城郭道を整備します。古い木と樹木を整備指針に従って段階別に整備し、伝統技術を利用して城郭道をつくっていきます。

    私たちの誓いの二番目です。漢陽都城は市民と共につくります。漢陽都城は王朝と共にその昔、民が完成した業績です。現在でもその意味を受け継いでいきます。八道出身の市民が漢陽都城の名誉巡城官となるでしょう。担当区域の管理を受け持つことになります。漢陽都城で人々が手をつないでいくなど、市民が主導するイベントを行います。

    2013年10月頃になるでしょう。10月に開催する理由は、漢陽都城の完成日が太祖実録に陽暦10月26日とあり、世宗実録地理志には陽暦10月31日とあるのが確認されているからです。その期間に合わせて市民の皆さんと共に漢陽都城の竣工を記念しようと思います。また、漢陽都城と調和する村をつくります。都城と私たちの生活空間、地域と村のすてきな調和を創造します。チャンス(長寿)村の共同体を守り、ソンブク(城北)洞の集住地域は韓国式家屋の村として生まれ変わるでしょう。これには強制性はありません。住民と市民が決めて主導するでしょう。

    軍部隊と民間施設の移転を十分な協議を通じて推進します。このために何より最初に市長公館を移転します。色々な意見を聞きました。しっかりと検討し、準備中です。2013年3月頃と予想しています。私有地区間は2015年以降、持続的に買い取って復元します。

    漢陽都城のための私たちの誓いの三番目です。都城を専門的に担当する運営管理体制が運営されます。市民と専門家からなる諮問会議が構成されます。また、漢陽都城に関する研究所と博物館が設立される予定です。そしてこれら全てのものを総括する漢陽都城都監が新設されます。これは朝鮮時代から呼び名が続いてきた職責です。4級公務員に該当する漢陽都城の都提調がその責任を負うでしょう。組織の長が都提調と呼ばれていたのです。世宗の時に、都城修築都監は左議政または領議政が引き受けたそうです。だから、誰が引き受けるとしても出世は間違いないでしょう?

    私たちの誓いの四番目です。そのようにして回復した漢陽都城を子孫のために未来の遺産として譲ります。着実に準備して段階を踏み、漢陽都城は2015年にはユネスコの世界遺産になります。これは漢陽都城の持続的な事後管理をするスタートとなるでしょう。

    そうやって共に切り開いていく漢陽都城の明日です。漢陽都城は首都ソウルの都市計画、そのパラダイムを転換するでしょう。ソウルという空間は、これまで乱開発と開発利益の対象に過ぎませんでした。これは私たちの尊厳を自ら傷つける価値観です。

    ソウルはこれから歴史を回復した文化コンテンツの都市として生まれ変わります。これは私たちの自尊心となり、新しくまた別の意味でソウルの成長エンジンとなるでしょう。

    漢陽都城は死んだ遺物ではなく生きた歴史になります。ユネスコ世界文化遺産の登録が最終目標ではありません。今日の私たちの生活、私たちが都城と共に散歩し、運動し、恋愛し、商売をし、勉強し、思索して、そのおかげで力と勇気も得て、昨日を振り返り明日を見通す全ての記録が都城の歴史となるでしょう。そのようにして明日の子孫に私たちの生活が続くでしょう。

    それだけありません。漢陽都城はソウルを訪れる観光客を2千万人に増やす土台となるでしょう。現在のソウル市の外国人観光客の数は年間で886万人です。今でも市民が考える数以上の外国人観光客が都城を巡城しています。漢陽都城は私たちだけの文化遺産にとどまりません。より多くの世界市民が訪ねて愛する真の意味での世界文化遺産として、その位置を確立するでしょう。

    明日の都城のために私は今日宣言します。漢陽都城はその昔民がそうしたように市民が完成します。600年のときを回復して歴史を完成します。漢陽都城は、私たちの生活に溶け込み、市民を幸せにし共同体意識を回復する首都ソウルの新しい象徴となります。

    明日の漢陽都城は、私たちの生活を物質万能の疲弊感から人本主義の温かさに回復させる大きな空間となるでしょう。

    私たちの漢陽都城は、市民が完成します。歴史を完成します。ありがとうございました。

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