3月23日に、「清渓川(チョンゲチョン)市民委員会」が発足しました。清渓川はソウルの都心を流れており、市民の暮らしに大きく関わってきました。水辺の空間は、都市部の生態的側面だけでなく、市民の憩いの場であるという意味からも重要な役割を持っていると言えます。しかもここは朝鮮時代、都市施設の中核部分でもありました。当時、周辺国は、清渓川は「朝鮮の河川技術と工学のレベルを示す白眉」という記録を残し、高く評価したといいます。
しかし、近代に入って清渓川は、鉄筋コンクリートに覆われ、高架が架けられ、人々に忘れられていきました。李明博(イ・ミョンバク)前市長がこれに注目し、高架を撤去し、川の上を覆っていたコンクリートを解体して清渓川を復元したことは、記憶に新しいと思います。多くの市民がこの事業を歓迎したのも当然のことでした。
問題はその過程でした。急ぎすぎたのです。小川も「一日にしてならず」です。ましてや「都城・漢陽(ハニャン)」、そして「首都・ソウル」を流れる川です。生態系を守ることはもちろん、その川に長年刻まれてきた人々の暮らしの痕跡、その歴史を復元するのに、何も急ぐ必要はありません。しかし、結果を早く出したいという気持ちが強すぎたのでしょう。結局、清渓川は電力に頼って川の水を引いてくる人工川になってしまいました。それだけではありません。清渓川の実態調査や精密な復元計画に基づいていないので、清渓川の治水事業や管理に関する多くの伝統と歴史が無視されました。
先月、専門家たちと一緒に清渓川の川辺を歩き、話を聞きました。歩きながら、私は忸怩たる思いでいっぱいになりました。もちろん、時代が変わり、周辺環境も変わったのですから、昔とそっくりそのまま復元することは不可能です。しかし、長い年月の間朝鮮の首都だった漢陽、そこを流れていた清渓川の真の姿と、そこに活かされた河川技術を復元していたら、その結果はどうなっていたでしょうか。おそらくユネスコ世界文化遺産に登録されても不思議ではない、立派なものになっていたでしょう。それだけではありません。見ていてうっとりするほど美しい水標橋、五間水門、二間水門などがすべて捨てられてしまいました。多くの遺構が、まともに検証すらされずに掘り返され、遺物は中浪(チュンナン)下水処理場の空き地に放置されている状態です。あるものは、頓珍漢な場所に移され、変なものに利用されたりもしています。残念さを通り越して、ご先祖様に申し訳ないという気持ちでいっぱいです。
今となっては、完全な復元は不可能なのかも知れません。過去の復元過程で多くのものが壊されてしまったのですから、それを元通りに整理するには、以前の二倍以上の労力が掛かるかも知れません。しかし、最善を尽くす必要はあります。今の状況で何ができ、何が最善なのか、専門家たちとの話し合いを今後も続けていきます。たとえ長い年月がかかったとしても、清渓川が全うな姿に復元されるよう、市民の代表と各界の専門家たちによる十分な議論と検証を経て、正しい復元目標を立てようと考えています。
外国の多くの都市では一つの文化遺跡を復元するために数十年、長い場合は数百年にわたって工事を進めていきます。ドイツのケルン大聖堂は600年以上経って完成し、スペイン・バルセロナにあるガウディ設計のサグラダファミリアは、1882年に着工したのに、現在もまだ完成していません。長大な建設過程そのものが、人類の文化遺産となっています。
我々は五千年以上の歴史を持つ民族です。焦ることも、恐れることもありません。清渓川は遠い遠い未来世代に渡すべき資産です。細心の注意を払い、時間と労力を掛け、市民とともに作っていきたいと思います。