つい最近のことです。
ぎりぎりセーフでした。出発しようとしているバスを止めたようなものです。玉仁洞(オギンドン)のことです。管理処分までされた状態でした。あやうく歴史の古い路地や伝統家屋の韓屋が完全に消え去るところでした。玉仁洞に何の変哲もないマンションが建ち並び、空を覆いつくすのではないかと心配でした。鐘路2街(チョンノ・イガ)を通る度に、私はいつもピマッコルが消えてしまったことを思い出し、心を痛めています。我々の伝統がすべてなくなってしまったら、ソウルはシンガポールや北京、東京と違うところのないただの都市になってしまいます。
玉仁洞は謙斎・鄭敾(キョムジェ・チョン・ソン:謙斎は号)の絵の題材にもなった由緒正しい地域です。
管理さえ行き届けば、これほど魅力的な地域はまたとないと思います。そうなると、玉仁洞はソウルの自慢にできる場所になるのです。住民の方々に快適な住居を提供することは優先しなければなりませんが、同時に美しい地域環境が整えられれば、住民の方々が願っている不動産の資産価値も高くなります。韓屋が建てられることによる容積率減少を招かず、仁王山(イノァンサン)などの風景が建物によって遮られないようにもう少し低層化する方法についても専門家から聞くことができました。ソウル市が公共支援を行う住居再生支援センター所属の葛藤調停官が現在住民と話し合っているので、良い方向で解決すると期待しています。
そして百四村(ペクサ・マウル)。
昨年の12月にこの村を訪れました。村を取り巻く様々な状況と開発に関する議論を直接聞くためです。行って年寄りの障子紙の張替えを手伝ったり、甘さが口の中に長く残る砂糖入りの温かいインスタントコーヒーも頂いてきました。そこに行くと、何もかもが懐かしい思い出を喚起します。「○○のばーか」と落書きされた低い塀、この村の出身誰々が工学博士になったという内容の垂れ幕、低い屋根と冬の高い空の間に立っている電信柱の電線。そして冬の日差しと風に当てて干されている食材、今はすっかり廃れてしまった最高の繁華街。思い出すのはそのような村に住む人々とその暮らしです。
その村を守ることができました。
そこに住む人々の暮らしも守っていきます。そして、百四村をより暮らしやすい場所に変えて行きます。この喜びを多くの人々と分かち合いたい気分です。そして多くの智恵と助けも仰ぎたい気持ちです。
百四村では6、70年代の住居文化や自然の地形がそのまま活かされて再開発されます。
本来住んでいた人が追い出されるようなことはありません。事業費を節減し、1,720世帯の需要に応えることのできる、いわば「ハイブリッド式」再開発を進めて行きます。新聞には「朴元淳(パク・ウォンスン)式再開発」と報じられましたが、私の名前を掲げるほどのものでもありません。人々の暮らしを考慮し、村とソウルの将来を考え、多くの人々の意見と経験によって作られた政策なのです。つまり、普通のことなのです。
これから百四村では、専門の開発業者、英語でいうディベロッパー(developer)がすべての建物の個性を活かし、クリエーティブな建物を作って行きます。広々とした、丸みの帯びた丘には、かわいい家々が建ち並ぶでしょう。博物館や展示館も建てられ、百四村の人々は自らの生活を守り、また幸せを育んでいくでしょう。いまだに鮮明に覚えている昨年の冬の百四村。そこの皆様の幸せを祈願します。きっとうまくやっていけるはずです。