不在が存在を証明する
– 崇礼門(スンレムン、南大門の別名)の上棟式において-
その前を通る度に、いつも罪を犯したような気持ちでした。
心のどこかに穴が開いたように、寂しい気持ちでした。
火災で一夜にして儚く消えてしまった崇礼門。
我々はまるで愛している家族を失ったかのように悲しみました。
別れを惜しむ追悼の献花が絶えず、
市民たちは自ら崇礼門復元のための募金活動を行いました。
代々受け継いだ山にある樹齢数百年の松を寄贈した市民もいます。
恋人と別れてしまった後、恋人への愛に気づくように、
崇礼門を失った今、我々は文化遺産の大切さを身にしみて感じています。
崇礼門は我々に「不在を通じて存在を証明」したのです。
今年の3月8日、
ようやく崇礼門上棟式が行われました。
崇礼門を失ってから4年間にわたって行われた復元作業の完成を祝う、意義深い行事でした。
上棟式の時刻に合わせて到着した崇礼門復元工事現場。
ところが、入り口から市民の抗議の声が聞こえてきました。
上棟式に参加するために花冷えの中をものともせず飛んできたのに、
その人たちは式に参加できないという話を聞いたのです。
中には、遠い光州(クァンジュ)から民族衣装の韓服を身に纏ってきた方も
いました。
崇礼門の上棟式を主管した文化財庁に問い合わせてみると、
上棟式の場所が工事現場だから、
安全上の理由で多くの市民を招待することはできないということでした。
まっとうな意見です。
しかし、いくら良い政策や行事であっても、市民が参加できないもの、
市民が主人公になれないものなら、その重要性は色褪せてしまいます。
4年前、崇礼門が焼失した時、毎日菊の花を置いて哀悼していたあのおばあさんが参加していたなら、
祖先の大切な文化遺産をなくしてしまったという罪の意識から三歩一拝(三歩歩くたびに一度地面に跪き拝礼する動作)を繰り返していたあの若者たちが参加していたなら、上棟式はより輝いていたのではないでしょうか。
多くの市民を招待するのが困難なら、
事前に申し込みを受け付けて、代表で何人かだけでも参加していただいていなら、
よりいっそう、素晴らしい上棟式になったのではないのでしょうか。
行政当局、文化団体、専門家、そして復元のために尽くしてきた職人の方々、
マスコミの人たちで賑わう崇礼門の上棟式が
なぜか寂しく感じられたのは、私だけなのでしょうか。
市民の不在の場所で、市民の存在を切実に感じた日でした。