1
氷雨のような冷たい雨が降った3月5日のことです。密猟された後、ソウル大公園に引き取られイルカショーをするようになったイルカ「チェドリ」。その「チェドリ」をどうすべきかという問題を巡って、様々な意見や報告書が提出されました。話題になったとたん、諸説紛々の状態となってしまった「チェドリ」。しかし、ソウル市政の問題は、「チェドリ」だけではありません。目まぐるしいスケジュールの中で「チェドリ」のことだけを考えるわけにはいかないのが現状です。他の仕事を終え、市庁へと帰る途中、私は「チェドリ」に関する考えに更けながら、隣で居眠りしている秘書に話しかけました。「あの子、海に返すべきではないでしょうか」2
3月12日、「チェドリ」との初対面。「クムドゥンイ」、「テポ」など、他のイルカたちもいました。会えて嬉しいからといってむやみに触って怖がられてはいけないと思い、変に緊張してしまいました。人も多く、取材陣も多数見えました。ただただ、「チェドリ」の立場で真剣に考えなくては、という思いでいっぱいでした。海に帰すと決めたのですが、実際に会ってみると、複雑な気持ちになりました。「『チェドリ』が帰ってしまうと、残った『クムドゥンイ』と『テポ』は寂しくないだろうか」、「まるで家族のようだった調教師たちは大丈夫だろうか」、「人を恋しがったりしないだろうか」、「ソウル市民、とくに子供達は『チェドリ』と別れるのを嫌がるのではないだろうか」、「海に放す訓練にちゃんと付いていけるだろうか」など、一瞬にして色々なことが頭をよぎりました。「チェドリ」に会う前、自分に問いかけました。「この決定は『チェドリ』のためと言っているが、実は私のためなのではないか」と。しかし、あの子を目の前にした時、すべてがはっきり見えてきたような気がしました。「チェドリ、やってみよう。家に帰ろう」と。すべてがあるべき場所にあってこそ、世界は美しいものです。それは行政の究極の目標でもあるのです。3
会見を終え、私は調教師たちといっしょに昼食を取りました。気になることは山ほどありましたが、家族のような「チェドリ」と別れなければならない調教師たちを思うと、むやみやたらと質問することはできません。ただ、一つだけ、気になることをそっと質問してみました。「チェドリがいなくなったら、クムドゥンイとテポはきっと寂しがるでしょうね?」と。しかし、調教師たちは口を揃えてこう答えました。「私達が精一杯かわいがってあげるから、大丈夫です」そう言ったとたん、全員が涙目になりました。私は言葉が見つからず、俯いてスプーンでスープをかき混ぜることしかできませんでした。4
その後、マスコミでは当の「チェドリ」とは関係なく「チェドリ」を巡っての様々な憶測や意見が飛び交っています。このように多くの人が意見を出すということは非常にありがたいことだと思います。多様な意見が集まるということは、チェドリの幸せを皆が願い、その方法をみんなで模索していると言えるからです。そして、今、我々は動物の権利、「動物権」について一緒に考えるまでとなりました。「チェドリの帰郷」に賛成するか、反対するかは別として。5
これから「チェドリ」を巡る意見はさらに広がっていくことでしょう。より専門的で、より大局的な意見も出されるでしょう。市民委員会も作られます。議論と検証を通じて合意に達するべきです。そのような多様性の中でも、必ず考慮すべき原則があるとすれば、それはただ一つ、「チェドリの幸せ」です。そしてソウル大公園の動物園もこれから徐々に変わっていくことでしょう。自然にやさしく、共生の理念に基づいた動物園になっていくはずです。時間が掛かっても、そうなっていくのが自然の理です。私はこれから展開されるその舞台では、台詞のない端役に過ぎません。台本に書かれた「町人A」ぐらいのものでしょうか。主演はチェドリ、もう一人の主演は動物園の家族。でもやっぱり本物の主演はソウル市民になることを願いたいですね。