ソウル市は、ユネスコ世界遺産に登録された朝鮮王陵40基のひとつであるサルン(思陵・定順王后の陵)の造成当時、石材を採取した採石場をカンブク(江北)区スユドン(水踰洞)にあるクチョン(九天)渓谷一帯で発見、韓国で初めて文化財(ソウル市記念物第44号)に指定する。
今回文化財に指定される「サルン(思陵)石物採石場」は、これまで正確な場所が発見できずにいた朝鮮王陵の採石場の所在地を正確に知ることができた最初の事例でもある。
本来サルン(思陵・京畿道南楊州市所在)は、タンジョン(端宗)の妃チョンスン(定順)王后宋氏(1440~1521)の墓であったが、スクジョン(粛宗)24年(1698年)にタンジョン(端宗)が復位した後、墓から陵に格上げされたため、その格式にふさわしい各種石物を取り揃えた王陵として造成された。この時、現在のプカンサン(北漢山)クチョン(九天)渓谷一帯から石材を採取し、その事実を谷の岩に刻んでおいたのだった。
クチョン(九天)の滝付近の岩には「己卯年(1699年)正月(1月)」サルン(思陵)を造るのに必要な石物を採取する仕事を担当した役人と石工の名前が刻まれている。この記録はサルン(思陵)の造成過程を記述した『思陵封陵都監儀軌』とも正確に一致するだけでなく、文化財に指定する過程においても確認された。
プカンサン(北漢山)国立公園の中の尾根に沿って東西に流れるクチョン(九天)渓谷(カンブク(江北)区スユドン(水踰洞))一帯は朝鮮王室の採石場であったため、一般人の接近はもちろん石物の採取が禁じられていた。その証拠として「禁標」及び「浮石禁標」と刻まれた岩が渓谷下流の南北側にあり、より人々の関心を集めている。
それだけでなく、インジョ(仁祖)の三男インピョン(麟坪)大君(1622~1658)は、丙子の乱以降、4回にわたって謝恩使として清の国を往来するなど王室の安定に大きく貢献し、インジョ(仁祖)から厚い信頼を受けていた人物であった。彼が清から戻った後、1646年に造成した松渓別業は建物や橋などはすべて消失し、現在は「九天銀瀑(李伸書)」「松渓別業(筆者未詳)」と岩に刻まれた文字、そして建物が建っていたと推定される跡だけが残っている。
インピョン(麟坪)大君の死後、彼の子孫たちが1680年反乱事件に巻き込まれて放逐されたため、松渓別業の管理が疎かになった。さらにクチョン(九天)渓谷が王陵の採石場として定められてから別荘や谷の美しい風景は急速に破壊されたものと推測される。
ソウル市文化財委員会では、このような歴史的意義を認め、「サルン(思陵)石物採石場」(ソウル市記念物)と「松渓別業址」(ソウル市文化財資料)をそれぞれ文化財に指定し保存することにした。
2019年は奨忠壇碑がソウル市有形文化財第1号に指定されて以来、ソウル市が600件余りの市指定の文化財を保護する制度を制定してから50年になる意味深い年でもある。
今後ソウル市では、「サルン(思陵)石物採石場」と「松渓別業址」の歴史性と価値を高めていけるよう文化財庁との協力を引き続き深めていく計画だ。
ソウル市、韓国で初めてユネスコ世界遺産朝鮮王陵の「採石場」を文化財指定
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< カンブク(江北)区スユドン(水踰洞)クチョン(九天)渓谷一帯の
遺跡の分布図 >
‣ サルン(思陵)石物採石場に関連した遺跡:a・b・c
‣ 松渓別業に関連した遺跡:1・2・3 |
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<サルン(思陵)石物採石場と松渓別業址があるクチョン(九天)渓谷>
インピョン(麟坪)大君の別荘である松渓別業があったクチョン(九天)渓谷一帯は、スクジョン(粛宗)25年にチョンスン(定順)王后のサルン(思陵)を造成するのに必要な石材を採取する採石場となった。 |
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<岩石上刻有「九天銀瀑」字樣的九天溪谷>
松渓別業の中心地「九天銀瀑」と刻まれた岩がある滝の周辺 |
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<松渓別業の中心地であるクチョン(九天)の滝を撮った写真>
松渓別業があったクチョン(九天)渓谷一帯は、朝鮮王陵のための石材採取場所となった。 |
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<「浮石禁標」という文字が刻まれた岩>
王室の採石場であるため、一般人の採取を禁ずるという標識 |
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<「禁標」という文字が刻まれた岩>
王室の採石場であるため、一般人の採取を禁ずるという標識 |
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<「九天銀瀑」という文字が刻まれた岩>
松渓別業の中心地にあるクチョン(九天)の滝にイ・シン(李伸)が刻んだと推定される岩の文字 |
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<「松渓別業」刻字>
インピョン(麟坪)大君の号をとって名付けた「松渓別業」と刻まれた岩の文字(筆者未詳)が「思陵浮石監役畢記」と刻まれた岩の上にある絶壁に残っている。 |