「ハニャン(漢陽)都城」はソウル市民に馴染みの薄い言葉だが、長きにわたってソウルを守ってきた文化遺産であり、市民の憩いの場、安らぎの場だ。
世界を代表する歴史都市には、それぞれその街を象徴するシンボルがあるが、都市の城郭をシンボルとする都市は珍しい。パリやロンドンといった由緒ある大都市でさえ、城郭の痕跡が多少残っているものの、ソウルのようにありのままの姿を残しているケースはほとんどない。欧州や中国の都市の城郭は、ほとんどが街の外郭を巡回する道路、または公園になっている。
だが、ソウルのハニャン都城は、かつての姿がそのまま維持されている。世界の各都市が平地に城を築いたのに対し、ハニャン都城はハニャン(現在のソウル)を囲む4つの山(ペガクサン(白岳山)、ナッサン(駱山)、ナムサン(南山)、イノァンサン(仁王山))の稜線に沿って築かれている。それで現代都市に変貌した現在もしっかりと原型が保たれている。
これは、山を頼りに街を築くという高句麗時代からの伝統をしっかり継承したためだ。ハニャン都城は、600年間にわたり都の機能を果たし、それは現在も続いている。そうした都市は、世界の中でソウルだけかもしれない。初めてハニャン都城を訪れた外国人が神秘を感じるのも当然のことだろう。
ハニャン都城は、戦乱に備えて築かれた城郭ではない。ハニャン都城は朝鮮初期、国の威厳を示し、治安を守る目的で築かれた。長きにわたって戦争を繰り広げた欧州の人々には不思議に聞こえるかもしれないが、朝鮮を治めていた国王らは敵がハニャンまで攻め込んで来たらもはや国の運命はそれまでだと考えていた。都城で敵と戦おうなどとは考えていなかった。それで、敵を威圧する防御施設ではなく、華やかな門楼を立て、高い塀で囲んで国王の権威を象徴した。
都城を出入りする四大門と四小門は、鐘楼で鐘を鳴らして夜明けと夜の通行禁止を知らせ、そのたびに門が開閉した。それによって都市にはリズムが生まれ、ハニャンの人々は都城の秩序に従って日々を過ごした。
朝鮮時代600年間、国の象徴であったハニャン都城は、日本による植民統治期と現代史の浮き沈みを経て、韓国人の記憶の中から消えていった。城門周辺の城郭は壊され、門だけが残された。ネササン(内寺山)は国家安保のために出入りが規制されるようになった。
1994年にナムサン、1996年にイノァン山、2006年にペガク山が開放されると、市民はハニャン都城に沿って歩きながらソウルの歴史と景観を感じられるようになった。ハニャン都城で最も標高の高いペガク山に登れば、宮廷や六曹通り(朝鮮時代、ハニャンの中心だった道路)を見下ろすことができ、600年の王都「ソウル」の過去を一望できる。
一方、ソウルを守る重要な拠点であるハニャン都城は、軍人たちが駐留して国の重要施設を守っており、南北分断の緊張感を肌で感じられる場所でもある。一時期、ナッサン壁画村で有名になったイファ(梨花)村には、こぢんまりとした博物館や工房が過ぎ行く人の目を引きつける。
チャンチュンドン(奨忠洞)ギルに沿ってナムサンに登ると、テジョ(太祖)時代に築かれた600年以上前の古い城壁と自然が調和した風景に出会える。そこからハンガンとカンナム(江南)も含めたソウルの都心を一望できるナムサンの城郭の道は、ソウルを理解するための必須コースだ。ナムサンを下ると、火災によって全焼した後、復元されたスンニェムン(崇礼門)を見ることもできる。
都心を通ってイノァン山に登ると、朝鮮時代のウッテ村(現在の「ソチョン(西村)」)、キョンボックン(景福宮)、プクチョン(北村)の風景と岩山が、いかにも歴史都市であることを実感させる。
ハニャン都城は単なる都市城郭ではない。ハニャン都城に登ると、ソウルの自然と地勢、ソウル構築の経緯、都城周辺に刻まれたソウルの歴史を肌で感じながら学ぶことができる。チョンノ(鐘路)区とチュン(中)区が運営する様々な解説プログラムは、ソウルへの理解を深めるのに大いに役立つ。
いつでも気軽に行ける歴史の旅コース「ハニャン都城」。朝鮮時代、ハニャンの人々はハニャン都城を一回りし、一年の運勢を占い、願い事をした。当時も今も変わらず、人生に夢と希望を抱く韓国人。ハニャン都城の周辺は、四季が織り成すソウルの風情と秀麗な風景を心と体で感じることができる場所だ。