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ソウルの意味

  • 現在のソウルで見つけるかつてのソウルの痕跡ソウルへ旅立つ歴史旅行(韓国語)
  • 一冊で読むソウルの歴史ストーリーソウル歴史2000年(e-book、韓国語)

ソウル歴史2000年息吹くソウルの歴史が繰り広げられます。

ソウル歴史編纂院ホームページ(韓国語)

大韓民国首都ソウルは、過去に百済と朝鮮の首都であり、時代の流れとともにウィレソン(慰礼城)、ハンサン(漢山)、ハンソン(漢城)、ハニャン(漢陽)、ヤンジュ(楊州)、ナムギョン(南京)、キョンソン(京城)などさまざまな名称で呼ばれてきました。[ソウル名称の由来(韓国語)]

アムサドン(岩寺洞)先史住居地を見ると分かるように、ソウルは新石器時代から人々が住み始め、三国時代、高麗、朝鮮を経て約2000年の歴史が宿る場所です。

ソウルの歴史を詳しく知りたい方は、古代、中世、近代、現代に分けられた各時代のソウルの歴史をご覧ください。

出典と写真提供:ソウル歴史編纂院

古代ソウル

先史時代、ソウルに人々が住み始める。

  • 新石器時代:紀元前約8,000~7,000年以降
  • 青銅器時代:紀元前13世紀頃

先史時代とは、文字で記録される前の時代を意味し、旧石器、新石器時代がこれに該当する。ハンガン(漢江)流域に人々が住み始めたのは旧石器時代で、カンナム(江南)区サムソンドン(三成洞)50番地一帯では、黒曜石で作った石器など旧石器時代の遺物が出土した。しかし、本格的に家を建て村を形成して住み始めたのは新石器時代で、新石器時代の遺跡はソウルの隅々で発見されており、その中でも代表的なのが、カンドン(江東)区アムサドン(岩寺洞)遺跡である。

青銅器時代は、本格的な農耕文化が始まった時期で、カンナム(江南)区・カンドン(江東)区・ソンパ(松坡)区などで青銅器時代の家跡が発掘され、ハンガン(漢江)流域では、青銅器時代に広く使用されていた無文土器であるカラクドン(可楽洞)式土器も出土した。特に、ハンガン(漢江)流域には、青銅器時代の墓である支石墓が多く発見された。これは、階級社会が成立していたことを立証し、このような政治的集団が、後に百済建国の基盤になったものと推定される。

古代、ソウルは500年間百済の首都だった。

  • 百済の支配:BC 18~AD 475
  • 高句麗の支配:AD 475~AD 551
  • 新羅の支配:AD 551~

紀元前18年、百済は慰礼城を首都として国を建国した。ソンパ(松坡)区プンナプトソン(風納土城)とモンチョントソン(夢村土城)一帯がウィレソン(慰礼城)があった場所で、ウィレソン(慰礼城)は後に大きな城を意味するハンソン(漢城)またはテソン(大城)とも呼ばれ、王が居住する場所を意味するワンソン(王城)とも呼ばれた。

475年高句麗の長寿王の攻撃によってハンソン(漢城)は崩壊し、百済はコンジュ(公州)へ遷都したが、ソウルは493年間百済の首都だったため、ソウルの至る所で百済の痕跡が発見された。その代表的な場所に挙げられるのが、ソンパ(松坡)区プンナプトソン(風納土城)である。ソンパ(松坡)区ソクチョンドン(石村洞)、カラクドン(可楽洞)、パンイドン(芳夷洞)では、実際に百済の古墳を確認でき、この周辺を中心に百済人が使用した土器、瓦、農機具、ガラス製作に使用した鋳型など、さまざまな百済の遺物が発見された。

ソウルには三国の文化遺跡がすべてある。

475年百済からハンソン(漢城)を奪った高句麗は、司令部をモンチョントソン(夢村土城)に置き、ハンガン(漢江)の向こう岸にあるアチャサン(峨嵯山)に堡塁を設置して、敵の侵入に備えた。モンチョントソン(夢村土城)では、百済の遺物だけでなく高句麗人が使用した土器や瓦当なども発見され、高句麗人が設置した堡塁が、アチャサン(峨嵯山)、マンウサン(忘憂山)、スラクサン(水落山)などで見られる。その後、高句麗は王位継承をめぐる争いと突厥の侵略によって弱体化し、551年に新羅・伽倻・百済の連合軍に押され、76年間占領していたハンソン(漢城)から追いやられ、北側へ退いた。

ハンソン(漢城)を占領して中国と直接交流を望んだ新羅は、再び高句麗と協約を結んで百済を滅ぼし、554年に新羅がハンガン(漢江)流域を完全に掌握した。新羅の真興王は、ハンソン(漢城)地域が新羅の領土である事実を示すため、プカンサン(北漢山)ビボン(碑峰)に巡狩碑を建てた。これがプカンサン(北漢山)チンフンワン(真興王)巡狩碑である。新羅は三国を統一して、高麗によって滅ぼされるまでソウルを支配したため、ソウルでは多くの新羅の遺物が発見されている。プカンサン(北漢山)チンフンワン(真興王)巡狩碑をはじめ、宝物第235号のチャンイサ(荘義寺)幢竿支柱、さまざまな新羅古墳などが発見された。また、ソウルと近いクァンジュ(広州)のナムハンサンソン(南漢山城)、ハナム(河南)市のイソンサンソン(二聖山城)でも新羅の遺物が多く出土した。百済・高句麗・新羅の三国の文化遺産がすべて発見されたのは、ソウル地域が唯一で、これが古代ソウル歴史の大きな特徴でもある。

中世ソウル

高麗時代、ソウルの名は「ナムギョン(南京)」

  • 高麗の支配:AD 898~

新羅を帰属させて後百済を征服し、後三国を統一したワン・ゴン(王建)は、高句麗の後継者を意味する「高麗」という名の国を建国した。当時、ソウルは「ヤンジュ(楊州)」という名で呼ばれていたが、便利な交通と豊かな物産など有利な自然地理的条件によって、1067年高麗の地方制度上最高地位である「ナムギョン(南京)」に昇格された。その後、またヤンジュ(楊州)に格下げされ、再びナムギョン(南京)へ格上げされる変化を経たが、1101年以降から高麗時代末まではナムギョン(南京)に昇格され、重要な位置を占めた。

高麗時代末期の恭譲王時期、王朝が混乱すると、乱世を打開するため、当時「ハニャン(漢陽)」と呼ばれたソウルへ遷都するが、政治状況がさらに不安定になり、6か月後再びケギョン(開京)へ首都が移され混乱を招いた。イ・ソンゲ(李成桂)が朝鮮を建国してハニャン(漢陽)を首都に見定めると、ソウルは朝鮮の首都として生まれ変わった。

ソウル、朝鮮の首都として生まれ変わる。

  • ハニャン(漢陽)、朝鮮の首都遷都:AD 1394~

太祖イ・ソンゲ(李成桂)は、1392年7月に朝鮮を創建して、1394年ハニャン(漢陽)を朝鮮の首都に確定した。1395年キョンボックン(景福宮)、チョンミョ(宗廟)、サジクダン(社稷壇)が竣工し、1405年チャンドックン(昌徳宮)完成とともに、ハニャン(漢陽)を中心とする実質的な朝鮮王朝500年の歴史が幕を上げた。朝鮮は、首都ハニャン(漢陽)を保護するため、白岳(プガクサン(北岳山))、ナクサン(駱山)、モンミョクサン(木覓山、ナムサン(南山))、イヌァンサン(仁王山)に沿って約18㎞の城郭を築城し、王の生活兼統治空間である宮殿として、キョンボックン(景福宮)、チャンドックン(昌徳宮)、チャンギョングン(昌慶宮)、キョンヒグン(慶熙宮)、キョンウングン(慶運宮)を建てた。これらは朝鮮の5大宮とされ、朝鮮の王たちが最も長く住んだ場所がチャンドックン(昌徳宮)だった。

朝鮮時代の統治機関は、議政府・吏曹・戸曹・礼曹・兵曹・刑曹・工曹の六曹と、司憲府・司諫院などの特殊機関で構成され、六曹が今日のクァンファムン(光化門)前のセジョンノ(世宗路)に集まっていたことから、ここは六曹通りと呼ばれた。今日の国立大学のような立ち位置の最高学部であるソンギュングァン(成均館)と中等教育機関にあたる4部学堂も四大門内に置かれるなど、ソウルは名実相伴う朝鮮の政治・行政の中心地だった。現在、韓国史跡第125号兼ユネスコ世界文化遺産であるチョンミョ(宗廟)には、王と王妃の位牌が祀られ、毎年祭礼が執り行われており、クァンファムン(光化門)西側のイヌァンサン(仁王山)麓にあるサジクダン(社稷壇)では、穀物の神に豊年を祈願する社稷祭が毎年開催されている。

朝鮮時代には、チョンゲチョン(清渓川)を中心に北側をプクチョン(北村)、南側をナムチョン(南村)と呼んでいた。プクチョン(北村)はチョンノ(鍾路)区カフェドン(嘉会洞)一帯に当たる両班官僚が集まり住む場所で、ナムチョン(南村)はチュン(中)区ピルドン(筆洞)を中心に貧しい儒生や庶民が集まり暮らしていた。その中間にはチョンノ(鍾路)があり、チョンノ(鍾路)には商人が商売をする市場通りがあり、都城経済の中心地の役割を果たした。現在ソウルの中心にあるハンガン(漢江)は、全国から納められた税金をソウルへ運送する大きな役目を果たし、急報を知らせるときは、ナムサン(南山)烽燧台で狼煙を上げて伝えた。地理的に東アジアの中心に位置するため、朝鮮は北東アジア各国と緊密な対外関係を保っていた。そのため、ソウルには各国の外交空間が設けられていた。中国の使臣が滞在した場所は太平館(現国民銀行ソソムン支店)と慕華館(現ソデムン(西大門)区ヒョンジョドン(峴底洞))、日本と南方の国々の使臣は東平館(現チュン(中)区インヒョンドン(仁峴洞)2街192番地)、満州の女真族は北平館(現イファ(梨花)女子大学附属病院)に滞在した。

朝鮮後期のソウル、廃墟を乗り越えて文化が開花する。

1592年日本侵略によって始まった7年間の日朝戦争(壬辰倭乱(文禄・慶長の役))は、朝鮮に大きな傷痕を残した。キョンボックン(景福宮)、チャンドックン(昌徳宮)、チャンギョングン(昌慶宮)はすべて焼失し、四大門内の民の民家の70~80%が燃えてなくなるなど、戦争による被害は甚大だった。つづけて、1624年李适の乱、1636年丙子の乱が勃発し、ソウルは多くの被害を被り、都城内は清軍の略奪行為によって荒れ果ててしまった。その後、朝鮮は乱れた民心を正すことに心血を注ぎ、まず最初に軍事制度を改編して都城を補修した。肅宗時期には、都城の崩壊部分を修築してプカンサンソン(北漢山城)を築造するなど、都城の防衛システムを一層強固に樹立した。その一方で、朝鮮王朝は戦争によって焼失したキョンボックン(景福宮)の代わりにチャンドックン(昌徳宮)とチャンギョングン(昌慶宮)を先に再建して、朝鮮後期の王たちはチャンドックン(昌徳宮)とキョンドックン(慶徳宮)を行き交いながら生活した。

朝鮮時代後期になると、チョンノ(鍾路)中心の市場通りから、チュン(中)区チョンゲチョン(清渓川)沿い一帯、トンデムン(東大門)のイヒョン(梨峴)とナムデムン(南大門)のチルペ(七牌)市場まで商業地域が拡大された。また、ハンガン(漢江)のヨンサン(龍山)・マポ(麻浦)・ソガン(西江)・ソンパ(松坡)などの浦を中心に活動する京江商人の活躍も盛んになった。朝鮮時代初期から政治・経済の中心だったソウルは、全国最大の手工業団地でもあった。手工業団地は、主にチョン(鍾路)区とチュン(中)区一帯に集中していたが、チョンノ(鍾路)区には王室の衣服を手掛けた尚衣院、食べ物と食事を盛る器をつくった司饔院があり、チャンイムン(彰義門)の門外には紙を製作した造紙署があった。これらの手工業領域が、朝鮮後期になると都城外へ拡大され、朝鮮の経済を活性化して、朝鮮後期にソウルが商工業都市へと発展する原動力となった。

このような雰囲気の中で、新たに実用的な学問を追求する実学が若い知識人の間で形成され、清国の先進文物を取り入れようという北学派が誕生した。実学の登場によって西洋の科学技術が朝鮮に取り入れられ、カトリック教会の思想も同時期に伝来した。伝来初期、カトリック教会は学問として研究され、徐々に信仰へと発展したが、朱子学的世界観を否定する教理によって迫害を受けるようになり、現在のヤンファテギョ(楊花大橋)の横にあるチャムドゥボン(蚕頭峰)では、多くのカトリック信者が処刑された。

もう一つ、朝鮮時代後期に大きな変化を迎えたのは、身分制度だった。産業活動の多角化による経済活動の進展に伴い、社会階層間の身分移動と身分分化が活発化して、農民の両班昇格が頻繁になり、奴婢解放が本格化していった。急変の時代を迎え、文学と芸術にも大きな変化が現れた。文学では政治腐敗と社会の矛盾を批判するホ・ギュン(許筠)の『洪吉童伝』、作者未詳の田禹治伝、事実的な言語表現が特徴の燕岩パク・ジウォン(朴趾源)の『熱河日記』などが発表され、絵画では韓国の山川をありのまま描く真景山水画が流行した。一般庶民の生活風習や女性たちの暮らしの様子を描いた風俗画も大流行した。代表的な風俗画家としては、檀園キム・ホンド(金弘道)と恵園シン・ユンボク(申潤福)を挙げられる。

近代ソウル

ソウル、扉を開いて国際舞台へ乗り出す。

  • 1895年10月8日 乙未事変
  • 1897年10月12日 大韓帝国宣布

1592年壬辰倭乱(文禄・慶長の役)によって焼失後、270年間放置されていたキョンボックン(景福宮)は、1868年にようやく再建された。キョンボックン(キョンボック)再建は、高宗の父・興宣大院君が長期にわたる勢道政治(世道政治)によって弱化した王権を回復して、国を正すために進められた。

朝鮮の開港に対する西欧列強のしつこい要求と侵入がつづき、朝鮮はフランス軍と米軍の侵入事件である丙寅洋擾と辛未洋擾を退けたが、1876年にはプサン(釜山)・インチョン(仁川)・ウォンサン(元山)などの港開放を余儀なくされ、西欧列強と条約を結んだ。当時の条約内容を見ると、関税主権が制限されるなど不平等な内容が多かった。これにより、朝鮮の商圏は外国商人の手中に落ちることが多発し、一般庶民の生活は困窮化していった。日本が日清戦争、日露戦争に勝利して大韓帝国の金融と財政を掌握すると、朝鮮の商人たちの没落は加速化した。そんな中でも、国債報償運動、殖産興業運動、近代教育運動に積極的に参加するなど、朝鮮の商圏を守るための努力も絶えなかった。

1870年代半ば頃、ハンソン(漢城)の若い両班たちの間で開花思想が広がり、新たな勢力が形成された。その一つであるキム・オッキュン(金玉均)等の集団は、清国の勢力を退けて改革を断行するため、1884年12月4日に郵政局で甲申の変を起こして新政権を樹立したが、清軍の攻撃によって三日天下に終わった。甲申の変を起こした郵政局跡地は、現在博物館として保存されている。

1895年5月三国干渉後、朝鮮における日本の威信が急激に低下すると、日本はその背景が明成皇后であると判断した。これは、明成皇后殺害事件(乙未事変)の発端となり、1895年10月8日、日本軍は高宗と明成皇后がいる乾清宮を襲撃して明成皇后を殺害した。明成皇后殺害によって世論が悪化すると、日本は犯人である三浦公使等を拘束したが、証拠不十分という理由で皆釈放された。明成皇后殺害事件後の1896年2月11日、高宗は女官たちが乗る駕籠に身を潜めてチョンドン(貞洞)にあるロシア公使館へ避難する事件、露館播遷が起きた。

朝鮮が自主独立国であることを知らせるため、高宗は1897年10月12日に国号を大韓帝国に改めて、大韓帝国初代皇帝として即位した。近代国として歩むため、教育と産業を育成して、電気・電車・電話・鉄道などの近代文明を活発に取り入れ、ソウル市民の生活は大きな変化を遂げたが、日本などの外勢による干渉は激化し、近代国樹立には至らなかった。

自主独立国になるための朝鮮の念願は、ソウルの隅々で発見できる。そのうちの一つが、ソウルサジク(社稷)トンネルの外にある独立公園だ。ここには、トンニンムン(独立門)、独立館、ソ・ジェピル(徐載弼)の銅像が立っている。独立協会を結成したソ・ジェピル(徐載弼)は、中国使臣を迎えるためのヨンウンムン(迎恩門)を壊してトンニンムン(独立門)を建てて、最初のハングル新聞「独立新聞」を創刊した。

ソウルで最初に電車が運行されたのは1899年、速くて便利な機能によって都市交通手段として大人気を博した。1900年ハンガン(漢江)鉄橋が建設され鉄道は全国に伸び広がり、1930年代末には韓半島内陸の山間地域まで鉄道網が拡大された。鉄道の導入によって、半月かかったソウルと釜山を一日で行けるようになり、老若男女が体を寄せ合い座って談笑を交わす平等社会が築かれた。しかし、この文明の利器のほとんどは、帝国主義列強が大韓帝国を侵略する過程で取り入れられたもので、帝国主義列強の侵奪を助ける役割を果たした。

民族独立運動期のソウル、試練を経る。

  • 1905年11月17日 乙巳条約

トクスグン(徳寿宮)近くにある路地道の奥へ進むと、1900年にロシアの建築家が建てた最初の西洋式レンガ造りの2階建物であるチュンミョンジョン(重眀殿)が現れる。チュンミョンジョン(重眀殿)は、1905年11月に大韓帝国が日本帝国と乙巳条約(第二次日韓協約)を結んだ場所である。皇帝の玉璽も押印されていない武力で結んだ条約に反発して、チャン・ジヨン(張志淵)は皇城新聞の社説に「是日也放声大哭」と載せて協約が不当であることを訴え、ミン・ヨンファン(閔泳煥)は協約に抗って自殺し、アン・ジュングン(安重根)義士は満州ハルビンで伊藤博文を暗殺するなど、全国各地で反日世論が広がり、日本を退けるための義兵闘争が拡大していった。

日本がハンソン(漢城)府をキョンソン(京城)府に改称すると、大勢の日本人が移住してソウルの人口密度は高まった。朝鮮総督府は、日本人が集まり住むナムデムンロ(南大門路)、ウルチロ(乙支路)、チュンムロ(忠武路)一帯を中心に、ソウルの道路と区域を改修した。しかし、韓国人が大勢居住するチョンノ(鍾路)の北側は開発が進められなかった。また、日本は植民統治権力の威厳を誇示するため、ソウルの至る所に西洋式建物を建設して、戦時工業化のためヨンサン(龍山)とヨンドゥンポ(永登浦)一帯に重化学工場を多数設置した。

ソウルに住む日本人と企業家が増加すると、1906年には現在のミョンドン(明洞)に三越百貨店京城支店が開店し、1920年代には丁子屋百貨店、三中井百貨店などがミョンドン(明洞)とチュンムロ(忠武路)一帯に建った。朝鮮時代に六矣廛が密集していたチョンノ(鍾路)には、1931年パク・フンシク(朴興植)が韓国人初のファシン(和信)百貨店を開き、1934年には全国にチェーン店を開店して、1937年には地下1階・地上6階のエレベーターが設置された超現代式建物に変身して巷の話題となった。キョンソン(京城)の変化に伴い、ソウル市民の生活の様子も大きく変わっていった。プクチョン(北村)には、伝統韓屋の代わりに書生部屋や客間がなくなった改良韓屋が増えて、コーヒーやビールを売るカフェ、ケーキやカステラなどの高級菓子を販売する店も登場し、通りには菊花パンや中国式ホットクを売る店も現れた。電気も一般家庭に普及され、1910年代には街灯が灯されるほど電気の使用が日常化されたが、これは一部の地域に限られ、ほとんどのソウルの人々は1930年代まで夜にはランプを灯して、炊事・暖房の燃料は薪だった。1920年代になると、電車が公共交通手段として定着し始め、9人乗り乗合タクシーも登場した。

大韓帝国を廃滅させた後、日本は洞の名称も日本式に変えるなどして朝鮮の痕跡を消していった。特に被害が大きかったのは、宮殿の破壊だ。キョンボックン(景福宮)が最初の対象となり、1915年朝鮮物産共進会を開催するという名目で、キョンボックン(景福宮)の多くの殿閣を取り壊して敷地を掘り返した。1929年には再び大規模な朝鮮博覧会を開催するとして、コンチョングン(乾清宮)などの殿閣を多数壊し、博覧会が終わると、その場所に朝鮮総督府庁舎を建てた。キョンボックン(景福宮)の毀損だけでなく、チャンドックン(昌徳宮)を統監府幹部と親日人士の宴会場に変えて、周辺の殿閣を取り壊し、チャンギョングン(昌慶宮)には動物園や植物園をつくって、名前もチャンギョンウォン(昌慶苑)に改名させた。

日本の弾圧にもかかわらず、1919年3月1日タプコル公園で大韓独立万歳の叫びが鳴り響き、これは韓半島全体、満州、米州韓人社会まで拡大していった。3・1運動は、国内外で展開された抗日民族運動の呼び水の役割を果たし、これによって大韓民国臨時政府が樹立された。しかし、多くの独立運動家が1907年に設置されたソデムン(西大門)刑務所に投獄され命を失った。ソウルは、独立運動と民族運動が絶えない場所だった。義烈団員のキム・イクサン(金益相)は朝鮮総督府に爆弾を投じ、キム・サンオク(金相玉)はチョンノ(鍾路)警察署を襲撃した。暗殺と破壊活動を主にしていた義烈団は、後に軍隊を創設して、抗日独立戦争を繰り広げる方針へ路線を修正した。

現代ソウル

ソウル、大韓民国の首都として踏み出す。

  • 1945年8月15日 解放
  • 1948年 大韓民国政府樹立
  • 1950年 6.25韓国戦争勃発

1945年8月15日、日帝の敗戦とともに、ソウルは植民地首都・キョンソン(京城)から大韓民国首都ソウルとして再び生まれ代わった。しかし、解放の喜びもしばし、北緯38度線を境に米軍とソ連軍が進駐し、両国の連合軍が信託統治案を提案すると、これに反対する右派と賛成する左派の対立が激化した。代表する政治指導者として、イ・スンマン(李承晩)とキム・グ(金九)が挙げられる。梨花荘に滞在していたイ・スンマン(李承晩)は、1948年7月20日に制憲議会で大統領に選出され、民族運動家のキム・グ(金九)は、京橋荘を中心に活動を繰り広げて分断政府樹立に反対し、統一政府樹立に情熱を注いだが、アン・ドゥヒ(安斗熙)によって殺害される不幸に見舞われた。

1950年6月韓国戦争が勃発し、ソウルは再び廃墟となった。戦争中、ソウル市民150万人のうち110万人以上がソウルを一度離れてから戻って来るほどに、ソウルの被害は甚大だった。1953年9月に戦争が終結すると、新しい都市建設に主力が注がれ、製粉・製糖・紡績などの援助物資を利用した製造業が最初に再生された。

公式名称がキョンソン(京城)市からソウル市に改名されたのは、米軍政が「ソウル市憲章」を発表した一か月後の1946年9月28日だった。1949年ソウル特別市に転換され、1962年からソウル市は国務総理直属の行政機関となった。初代政権であるイ・スンマン(李承晩)政権は、時間が経つにつれ独裁政治へと変質し、1960年3月15日に不正選挙を行った。不正選挙を糾弾する学生と市民たちに対して警察が発砲すると、市民の怒りは全国各地で爆発し、4月26日イ・スンマン(李承晩)は下野声明を発表して米国ハワイへ亡命した。不正選挙と警察の暴力に反発して政権の退陣を求めた4・19革命の成功によって、大韓民国に民主主義が開花した。

ソウル特別市、世界のメトロポリスへ

  • 1986年 アジア競技大会、1988年 ソウルオリンピック、2002年 ワールドかプ開催

1961年パク・チョンヒ(朴正煕)政府樹立以降から70年代末まで、年平均9%という驚異的な経済成長を遂げて、大韓民国は「ハンガン(漢江)の奇跡」と称えられた。ソウルの面積も拡張をつづけて、1963年ヤンジュ(楊州)郡・クァンジュ(広州)郡・シフン(始興)郡・キンポ(金浦)郡・プチョン(富川)郡の一部はソウルに編入され、1973年には約605km2㎡に拡大された。ソウルに地下鉄が最初に登場したのは1974年8月15日、ソウル-スウォン(水原)、ソウル-インチョン(仁川)、ヨンサン(龍山)-ソンブク(城北)、ソウル-チョンニャンニ(清凉里)の全長98.7kmに達する区間だ。これが、現在の地下鉄1号線である。静かな農村地域だったカンナム(江南)は、1963年ソウル市に編入され、カンナム(江南)開発の必要性浮上によって、1969年末から本格的な開発が始められた。1970年代のソウル市政の最大課題は、「カンブク(江北)人口集中抑制」政策で、これによってヨンドン(永東)地区の開発は加速化され、カンナム(江南)開発が促進された。カンブク(江北)にあったほとんどの由緒ある高等学校はカンナム(江南)に移転され、その結果、大勢の人がカンナム(江南)へ移住し、カンナム(江南)は教育のメッカとして定着した。

ソウルと大韓民国の発展を象徴的に見せてくれるのは、1986年ソウルアジア競技大会開催と1988年ソウルオリンピック開催だ。南北分断などの困難な条件下にもかかわらず、大会は盛況のうちに幕を閉じ、1970年代以降の高度成長によって格上げされた地位を世界へ示すことができた。特に、88ソウルオリンピックは、ソウルと日本名古屋が候補に挙がり、52:27という圧倒的な支持を得て開催国に選ばれた。2002年には韓国と日本が第17回ワールドカップを共同開催して、世界は再びソウルに注目した。韓国は世界的強豪であるイタリアとスペインに打ち勝ちベスト4に進出して世界を驚かせて、応援団の「プルグンアンマ(赤い悪魔)」の熱狂的な応援は、世界の人々に深い印象を残した。

ソウルの大きな変化が見られる場所は、チョンゲチョン(清渓川)だ。1760年に原型が完成したチョンゲチョン(清渓川)は、ナムチョン(南村)とプクチョン(北村)を分ける境界線であると同時に庶民の生活基盤だった。日本による植民地時代、朝鮮総督府は大陸侵略の輸送路として活用するため、セジョンノ(世宗路)十字路からムギョドン(武橋洞)までチョンゲチョン(清渓川)を覆蓋して、植民地支配からの解放と6・25韓国戦争などの混乱を経て、チョンゲチョン(清渓川)は放置された。ゴミと汚物がチョンゲチョン(清渓川)に溢れると、ソウル市は覆蓋を決定して、クァンギョ(広橋)からシンダプ(新踏)鉄橋まで覆蓋が徐々に進められた。しかし、ソウルがさらに発展を遂げると、開発と成長よりも文化と環境により大きな価値を置くようになり、2003年7月から覆蓋された道路は撤去され、チョンゲチョン(清渓川)復元工事が進められ、2005年10月1日チョンゲチョン(清渓川)は正式に復元された。

ソウルの人口は、1950年160万人から2008年約1,042万人に増えたが、世帯当たりの人口は5人から2.6人に減った。植民地支配からの解放直後、ソウルで最も高いビルは8階建てのパンド(半島)ホテルだったが、現在は30階以上の高層ビルが林のように立ち並んでいる。解放直後、ハンガン(漢江)を渡れる橋はハンガンテギョ(漢江大橋)が唯一だったが、現在は25本の橋梁が設置されるなど、ソウルは韓国の発展とともに大きく変化している。1970年代までは練炭ガス中毒による死亡事故が頻繁に起こり、トンデムン(東大門)市場やナムデムン(南大門)市場などの伝統市場で商品を購入するのが一般的だったが、1988年ソウルオリンピックをきっかけに百貨店の利用が急増した。1990年代以降、インターネット時代到来とともに、政治・経済・社会・文化などすべての分野において想像を絶する変化を遂げた。

21世紀は、国対国よりも都市対都市の競争が熾烈化している。これにより、ソウルは北東アジアの中心都市となるため、国際金融、ビジネス産業、情報通信、デジタルコンテンツ、ファッション産業、バイオ産業を5大戦略産業として、これらを集中的に育成している。ソウル市は、住みやすい環境都市を目指して進化を続けており、2005年6月には約115万m2に達する広い公園、ソウルの森が開場した。

2004年7月1日、ソウル市は大々的な交通システム改編を施行した。中央バス専用車道を果敢に設置して、電車とバスの連携・輸送システムを導入し、公共交通の料金負担を大幅に減らした。また、幹線路線と支線路線の二元システムを定立させて、中央バス専用車道を利用して迅速性を確保し、過飽和状態のソウルの交通状況を効果的に整理した。

現在、ソウル市は国際都市の実力をある程度備えていると判断されるが、21世紀には文化・環境・福祉・経済などすべての分野において世界一流都市になることをソウル市ビジョンとしている。ソウル市が追求する一流都市とは、人の香りに満ちた温かい都市、自然に似た快適で安らかなグリーン都市、世界を収めた活気に満ちた都市、悠久たる歴史文化都市であり、ソウル市が推進中のさまざまなプロジェクトが完成すれば、ソウルは世界的なブランド価値を持つ一流都市として再び生まれ変わるだろう。